徳川家康やその息子である秀忠が思いもよらなかったことに商業が急速に発達し、商品生産が活況を呈して、やがて日本全国にひろがって、蝦夷地の鰊(にしん)が近畿の棉畑の肥料になり、薩摩の砂糖が全国に広がり、今の阪神間の灘の酒が年に70万樽以上も江戸に運ばれ、京・大阪の古着が今の岩手県である南部藩の藩士のご婦人たちの晴れ着になり、秋田の米が大いに大阪の米市場に運ばれたといったことを考えるとき、この経済社会をささえたのは、日本海や太平洋を往来する大型和船だったことを見逃してはいけないといつも考えます。
だいたい大阪と江戸間をふつうであれば20日ほどもかけて地乗りでエッチラホッチラ行くわけですが、風の都合がよいときはこの和船で行けば4~5日で行ってしまうこともできたようで、江戸も後期になると船が大いに交通手段のウェイトを占める割合が高まったわけで、ペリー来航以来急速に船での交通手段がメインになったことが大いなる間違いであることを、いまさらながらに再認識しないわけにはいきませんね。