自然の中に住み、自然を描く、寺尾一郎のクレヨン画

徳川将軍家略系図.svg_R

 

 

このブログで前回、江戸幕府を開設した徳川家康の凄さを1600年から1615年までの間に焦点を当てて述べました。

しかし、この徳川の家系図をもとに家康のしたたかさ、先見の明が明確にわかるといわれれば、俄然と興味が湧いてくるのではないでしょうか。

意外な事実もあって「へえ~っ、そうだったのか」みたいなことも、易しくわかりやすく述べてみたいと思います。

一番左側の縦に並んだ家康のすぐ下にある信康は長男ではあったものの、織田信長の娘を妻としたにもかかわらず信長に疑われて切腹させられています。このとき父親の家康はどう思ったことでしょうか。ここにスポットをおいただけでも小説が書けそうですね。

次に信康から右に秀康、秀忠、忠輝、義直、頼信、頼房、と7人の家康の子供が並びますが、青い数字で2と記された秀忠が2代目の将軍です。

それぞれの名前の左上に青い数字で書かれたのが代々の将軍たちです。一番右の下に書かれた慶喜がご存知15代将軍で大政奉還をして事実上の徳川幕府の歴史に終止符をうった人です。

さあ、それでは壮大な家系図ドラマのはじまりはじまり!!

江戸幕府をつくった家康は生きている間に「御三家」というものをつくりました。それが2代目秀忠の右線上に位置する義直の「尾張家」、頼信の「紀伊家」、そして一番右にいる頼房の「水戸家」。

家康晩年の子供(九男、十男、十一男)を分家の形で独立させて、万一、総本家である徳川将軍家に後継ぎが絶えてしまった場合、そこから補充するというもので、いわば「保険」をかけたようなもの。ここがまず第一に家康のすごいところです。

ところが歴史が経過したことでそれが如実にわかってくるのですが、家康はどうやらもうひとつ「保険」をかけていたフシがあります。

それが一番格下の頼房の「水戸家」を「勤皇の家」にしたことです。これが本当に凄い読みなのです。

生前、家康は水戸家に対して、「もしも万が一にも将軍家と天皇家が対立したら、水戸家は迷うことなく天皇家に味方しろ」といった形跡があります。

つまり、これも大いなる「保険」でしょう。どこかの大名(外様)が万一天皇と結び付いて本家である将軍家を滅ぼそうと決起したときには、ちょうど関ヶ原の戦いで東軍と西軍と両方に「味方」した大名がいたようにしろ、ということです。

そうすれば、万一、将軍家が「朝敵」(天皇に対する敵)となって滅びるようなことがあっても、水戸家は残り、徳川の血筋は絶えない、ということまで間違いなく狸親父は計算していたはずです。

以前にもここで書いたように、家康は僕が知る歴史上の人物の中で最も過去の歴史を深く研究し、洞察しつくしていた人物だと思っていますから、織田信長、豊臣秀吉、この2人と家来との関係や戦さでの寝返りなど百も承知のはず。だから自分が亡くなったあとも必ずそうしたことが起こりえるであろうことを確信をもっていたに相違ありません。

しかもこの「勤皇の家」となっていたであろうことは、皆さんもよくご存知の水戸光圀(水戸黄門)が「将軍家は水戸家の親戚頭に過ぎない。われわれの主(あるじ)は天皇家だ」ということばを折に触れて述べていたことからも容易に推察できます。

水戸光圀公はこの一番上の右端、頼房の子供です。日本ではおなじみの「水戸黄門」は単なるドラマであって実際の話ではまるでありません。

ただ、「水戸学」という立派な学問を作り、「大日本史」編纂事業を通じて代々にわたり尊王攘夷運動に発展していってしまうのは家康の致命的な誤算だったかもしれません。

しかし・・・・!!!天下の家康公にも「想定外」のことが起きます。

それを実行にうつしたのが「名君」といわれた8代将軍吉宗です。

上の家系図でもわかるように彼(紀伊家出身)にとって目のうえのたんこぶが尾張徳川家でした。

そこで知恵のある吉宗はご先祖家康公に習って「御三卿」なるものを設立します。

一般的には家康同様に家系が絶えないための「保険」といわれることがありますが、どうみても「尾張つぶし」以外のなにものでもありません。

なぜなら御三卿(一橋、田安、清水)は全て吉宗の血筋で固められているからです。

さあ、これで家系内の内紛が起きるや起きないや、歴史は強烈に皮肉なもので、幕末になって今度は吉宗も想像もしなかった「想定外」のことが起きます。

それが幕末に詳しいお方ならよくご存知かと思いますが、後継者のいなくなった一橋家が突然に、水戸家から養子を迎えたのですね。

これが皆さんもよくご存知15代将軍慶喜です。

慶喜の母親は実は皇室から嫁いできた有栖川宮吉子女王で、慶喜は幼少時代から水戸家最後の斉昭(なりあき)に「われわれの主人は天皇だぞ」と叩きこまれてきました。

家康の考えに基づけば、慶喜は絶対に将軍にしてはいけない人間であるにもかかわらず、一橋家に養子に入ってしまったがために「水戸家出身」の経歴がリセットされ、有力な将軍候補になってしまったというわけです。

どう考えても一人の優秀な人間が英知をつくして先を読んでも260年という長い時間の流れの中では必ず予期せぬ出来事がおきるのが当たり前だ、と家康は日光東照宮の地下で悔しがっているに違いありませんね。

こう見てみると、周囲の圧力だけでなく、15代将軍慶喜があっさりと政権を皇室に返上したこともわかるのではないでしょうか。

 

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