自然の中に住み、自然を描く、寺尾一郎のクレヨン画

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修学旅行などでも必ず見学コースの中に入っている京都は二条城。

1603年に関ヶ原の戦いで勝った徳川家康が京都御所の守護と将軍が上洛(京都に入ること)した際の宿泊所として築城したのは有名な話。

この二条城にまつわる徳川家康の関ヶ原戦勝以降の変貌ぶり、狸親父ぶりをここで簡単にご紹介したいと思います。

彼はいわずもがなですが東軍の総大将として西軍と関ヶ原の戦で勝ち、名実ともに天下統一にむけてのスタートをきったのが1600年。

豊臣秀吉に忠誠を誓っていた西軍は小早川の裏切りなどもあって敗退します。

しかし、家康が「鳴かないなら鳴くまで待とうホトトギス」の逸話で有名になったのはこの戦勝からあとのことを如実に物語っています。

すぐに天下統一かと思いきや、ようやく3年後の1603年に正式に「征夷大将軍」に任命されて江戸に幕府を開きます。この間の3年間、彼は何をしていたかというと、負けた西軍の諸将の領地を没収し、江戸から遠く西国の地に追いやって封じ込めに懸命になります。

しかし、肝心要の秀吉の子供秀頼と母親の淀君は本拠地大阪城にいます。彼らは表向きは関ヶ原の戦いに組みしなかったわけですから、摂津、河内、和泉65万石の一大名に落とされはしますが、このままの状態にしてやり、さあ、どう料理してやるかと考えます。

1603年に征夷大将軍になった家康、すぐに事を起こしては全国から避難の的になることは百も承知、まずは秀頼を内大臣に推薦したり、孫娘の千姫を大阪城に輿入れさせたりして警戒心を解いています。(このあたり、本当にしたたか)

秀頼も母親の淀も馬鹿ではありませんから「怪しい?」とはなりますが、まあ、秀頼がまだ小さいからそうしただけのこと、成人したら政権返上してくれるだろう」と甘く見てしまいます。

ところが!!!1605年に家康は政権の座を降り、その職を息子の秀忠に譲渡した瞬間、大阪城に激震が走ります。

しかも秀忠の就任祝いのパーティーに秀頼を出席させろとまで言ってきたので淀君はぶちきれになります。

しかし大阪城の中には幼い秀頼の周囲にまことに人間としてよくできた参謀がついており、ここで事を荒げてはいけないと淀を説得させた結果、意外にも無視状態の様子を見た家康は、それでは・・・と代案を出してきます。

それが、この二条城での家康と秀頼の2者会談です。

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1611年3月、会談が実現しますが、その裏側では淀をなだめになだめてこの会談まで持って行った豊臣家臣の加藤清正と浅野幸長の功績を見逃すわけにはいきません。

さて、この写真の二の丸御殿の中で両者の会見が行われますが、当時は今のような通信手段も写真もありませんでしたから、広間で顔を上げて久しぶりに秀頼の顔を見た家康は内心びっくりします。

あまりに凛々しく立派に成長して成人になった秀頼の姿がそこにあったからです。

「殿下、私はもう二度と戦をおこしたくはない。平和にみなが暮らしていけるよう、自分は殿下と協力してよき国つくりをしていきたい」と立派な筋の通った理知的な話をする秀頼を見て、家康は、これはまずい!!早くこの秀吉の子供一族を消してしまわないと、秀忠以降の政権も安泰というわけには間違いなくいかない、と直感でそう思ったに違いありません。すでに年齢的にも高齢になってきてもいます。

そして、いよいよ本格的に秀頼と淀君を料理するための本格的な料理の準備に入っていくわけです。

1614年から1615年にかけてのあの有名な大阪「冬の陣」、「夏の陣」です。

なんと関ヶ原で戦勝した1600年から15年という歳月をかけて、家康は焦らず、早急に事を起こさずして徳川幕府の下地つくりをしていくわけです。

なんというしたたかさ、用意周到さ、腹黒さ、忍耐力。

僕がこの人だけは歴史上の人物としてあらゆる角度から分析していかないと、途方もなく引き出しの多さが凄すぎて正確に語るわけにはいかないと実感している所以でもあるわけです。124496060816916216522_R

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