自然の中に住み、自然を描く、寺尾一郎のクレヨン画

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物事の本質に係わるものの概念というのは非常に難しく、こうだという定義がないのではないかと思うことがあります。

生きる人生体験の中で結局のところ、「本質」というのは、その人の体験の積み重ねで判断するしかなく、それもこれこれこうなんだというよりももっと直截的に感じるようなものではないかと感じるようになってきました。

それはつまるところ心地よいとか快感に思うことのような気がしてなりません。

視覚的にも、非常にシンプルでありながら美しいと感じるようなフォルム。

人工的な匂いではなく、居心地のよさや癒しすらも感じてしまうような香り。

そうしたものの中に「本質」が隠されているのだとしたならば、もしかすると、人間も、いや動物として本質を心地よく感じるようにそもそもDNAにきちんと組み込まれているのではないでしょうか。

それはこと音楽、もっと細分化すれば音にもあてはまるような気がします。

僕がカラヤンの音楽を聴いていてそれを感じるのが「音の綺麗さ」、「磨きかかったなめらかな美しい音」の一点にしぼられるのではないかと感じ、だからカラヤンは音楽の「本質」を理解していたのではないかとすら思ってしまうのです。

音楽という行為は非常に難解きわまりないものです。

作曲家が五線譜に書いた音符の行間に隠されたものを演奏家や指揮者は読みとらなければならず、そこから自分の哲学的な確固たる信念でその音を再現しなくてはなりません。

音楽にももちろん「楽典」という理論がありますが、それはいわば法律のようなもので、こうでなければならないといった決まりごとです。

しかしアレグロと表記された音の早さがどれくらいなのかは作曲家はもとより、演奏家によってもまちまちなのですから、やはり聴く側にとってその演奏が心地よいものかどうかということに尽きるのではないかと思ってしまいます。

美しい風景(視覚)にもやはり本質が隠されているのではないでしょうか。

ですから、評論家という職業のお方が完成された作品に対してああだこうだと批評したり、ここはこうしなければいけないのにこれをしていないから間違っているということと、者の「本質」を語る次元は最初から違うものなのでしょう。

十人十色、「本質」の感じ方も人それぞれでしょうから明確に定義することはできませんが、最大公約数として考えてみたら、やはり「心地よいもの」の中に内包されているといってもよいのではないかと感じます。

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