自然の中に住み、自然を描く、寺尾一郎のクレヨン画

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歴史上の人物の中でも、このお方の名前を知らない人はいないでしょう。それだけで彼の生前の企みは大成功のはずです。

この人、歴史好きのマニアには深く探求すれぶするほど底が知れないほど不気味な人で、興味の尽きない点で僕にとってはダントツといってもよいかもしれません。

小さい時に人質(ひとじち)として敵の将軍家に預けられる。半ば丁稚奉公でしょうか。

この時に彼は血縁関係なんてまるで意味をなさないという点で、後世に成長していく過程の最も大事なDNAをブラシアップしていくことになるのを見誤ってはいけません。

単に凄い人だったというだけで片付けてはあまりにも惜し過ぎる人だからです。

僕がこの人の何が一番凄い点かと聞かれたら、日本史上、一番歴史を勉強していたという点で、またその知識を知恵にかえて先を読むことに非常に長けていたということです。

また、何をすれば人間はいやがり、何をすれば喜ぶかという人心術においても豊臣秀吉など比べ物にならないというのが僕の持論です。

それもこれも小さいときに人質に出されていたときに学んだはずです。

さて、そんなことをあげればきりがなく、いくらでも筆が進んでしまう彼ですが、唯一、彼にも先を見通す予測を大きく見誤ったことがひとつあります。

なにしろ300年さきに日本がどうなるかまで見通して、こうなったらこうするという布石を全てうってきた彼なのに、です。

一体、それはなんだったのでしょうか。

それは実は1853年に外国から巨大な黒船がやってきたときに自分の後世の部下たちがどうなるのかを見誤ったことではないでしょうか。

ありていに言ってしまうと、日本で一番偉いのはやっぱり天皇だったんだと全国の人間が思いはじめてしまいだしたということです。

実は徳川幕府の15代続く間、あの南北朝も含めていいもわるいも目立ち過ぎていた天皇の影が急に薄くなってしまいます。

このことは歴史を学ぶうえで物凄く大切なことなのです。

天皇自身の実力もさることながら、そこまで見越しての徳川家康の戦略もありました。

あの凄い制度「禁中並公家諸法度」というやつです。

家康は後世代々、国内で内紛がおきたときに諸藩が天皇につかないようにと、公家衆にまでむやみなことはさせないぞと睨みをきかせる法制度を整えます。

ここまでは凄いことです。十分すぎるほどの先見の明あり、です。

しかし、彼は武家社会にも武家諸法度を作ったのはいいのですが、身分や上下関係をしっかり守らせるという意味で、中国から伝わってきていた「朱子学」を徹底させます。

これで自分の後世代々諸藩にもたてつかせない制度をつくったことで恒久的に安泰と読んでしまいます。

事実200年以上もこの法制度のおかげで国内の諸藩が内紛をおこしたりすることもなく、形上は安泰かに見えました。

ところが国内の経済が怪しくなりだして、なにやってんだとばかりに諸藩の不満が募りだしてきたところに、1853年の招かれざる嫌なお客が外国からやってきてしまいます。

さあ、こうなると国内、とりわけ幕府のうろたえぶりが顕著になりだす、財政はひっ迫する、と悪いことずくめになってきます。

そのときに西のすみのほうから「ふざけんじゃないよ」と反旗を翻す諸藩が現れてしまいます。

いわずもがなですが、薩摩藩、長州藩、そして土佐藩などです。

そして彼らの頭の中に化学変化が起きてしまいます。

「我々の国で一番偉いのは幕府???いやいや、やっぱり天皇じゃないか」

これでせっかく家康が先を読んで作ったはずの朱子学、儒学が矛盾したことになって、あの「尊王攘夷」という考えを生んでしまうきっかけになってしまうのですね。

黒船が来なければ、まだくすぶりはしても一気に爆発するまでにはすぐはならなかったでしょうから、これが生涯における家康の最大の誤算だったと僕は考えるのですが、皆さんはいかがお考えでしょうか。

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