家庭教師の依頼を受けて、快く引き受けてから早くも4カ月が経ちます。
週に2回、ひと月に8回のペースで1回が2時間と決めて進めている勉強。
中学1年生の科目だからといって決して侮るわけにはいきません。
相手の教え子と同じように、自分も予習復習をしなければならなくなったからです。
国語、数学、理科、社会(歴史と地理)の4科目ですが、ケースバイケースで英語も見ます。
自分が中学1年生だったのが、今からちょうど44年前であることを考えると隔絶の感ありだなと思わざるをえません。
当時と比較して驚くような違いがあるわけでもなく、比較的におさらい程度で済むものもあれば、じっくりとりくまなくてはならない内容もあります。
さて、問題はその教え方です。
教師たるもの、なにが一番大切なことかを客観的に考えざるをえない瞬間が頻繁にでてきます。
体調など波に乗れずにいくら教えても飲み込んでくれないこともあれば、自発的に黙っていてもスラスラ解いてくれるときもある。
得意不得意もありますから、その見極めも大事な要素です。
しかし、この4カ月という時間の経過は、自分にとってとても大切なことを気がつかせてくれました。
それは「理解は偶然に起こり、誤解は必然に起こる」というまさにこのワンセンテンスではないでしょうか。
しっかり読み解いて理解していたつもりの問題も、相手に正しく伝えたつもりが、それを誤解して受け取っていることが少なからずあります。
どうしてこんなことが起こるのでしょうか。
それは、その人の考え方はその人の「経験」に左右されるということです。
しかしよくよく考えてみると、「全て同じ体験を積んでいる他者」はいませんから、「人と人が、100%理解しあえることはほぼ不可能」だとも言えます。
それが教えている段階で、コミュニケーションで起きるわけですから、問題は根深いところにあります。
相手も年齢に関係なく感情のある人、体調もあっていくら教えても理解できないことが、別の日にはすんなりと理解できたり。
そこで、好きこそものの上手なれ、ということばを思い出します。
嫌いだったり興味のないものはいくら教えても頭にはいらないのが人間の脳の不思議なところ。
ということは苦手意識をもった世界をいかに好きな世界にさせられるかも重要なこと。
相手が今どんな状態でどう考えているのかを繊細に読みとる力が必要であることを痛感するようになってきました。
そしてこれも大事なことを最近、この教えるということから学んだことがあります。
それは相手がうまく解いているときは決して邪魔をするなということです。
これは乗馬の世界にもよく似ているといえるかも知れません。
馬を機嫌よく走らせることができるようになった。
ところがある日、障害物を乗り越えるときがやってきます。
どうしたらこんな高等な動物をハードルを越えさせることができるのか心配で夜も眠れなくなってしまいそうです。
ハードルの目の前まできたら予め用意しておいた長い棒の先にニンジンをぶらさげてハードルを飛ぶ瞬間にそのニンジンを持ちあげたら、それに食い付こうとしてジャンプするのではないかと、そんな稚拙なことを真剣に考えてしまいます。
しかし、そうではありません。一番大切なのは相手を全幅の信頼をもって邪魔をしないこと。任せる。
そうすれば黙っていても馬はちゃんとハードルの向こうに着地してくれる。
それと同様にことがうまく進行しているときは時折さすがだと誉めるだけでいっぱいの信頼を相手に寄せて、わかってもらうだけでよいのだということでしょうか。
そして自分がいなくても解いていくことができるという自信をつけさせてあげれば順調に問題を次々にといていけるようになるのですから面白くて仕方がありません。
華厳経の中にこんな一節があります。
「見るもの、聞くもの、全てこれ教えである」と。