自然の中に住み、自然を描く、寺尾一郎のクレヨン画

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日本の歴史が三度の飯より大好きな自分、ではどの時代が好きかと聞かれれば、やはり一番人間関係が複雑で激動の「戦国時代」と「幕末明治維新」をあげます。

さて、今日はそんな幕末明治維新で意外に影が薄い大事な人のお話をします。

この人は江戸からははるかに遠く、鹿児島の薩摩藩に所属していた重要人物であるにもかかわらず、歴史の教科書にもほとんど紹介されていません。

あの悪評高い「山川の日本史」でさえも、開拓使官有物払下げ事件のところで「薩摩藩出身の政商」としか登場しないので、これは本当に驚くべき酷さです。

この銅像がどこにたっているかも含めて、この顔を見てすぐにこの人の名前を言えたお方は、かなり歴史マニア、あるいは幕末の本質をよくご存知のお方と思います。

その人の名前は「五代友厚(ごさいともあつ)」。

倒幕の志士としての彼の知名度は極端に低いといわざるをえませんが、それもこれもこの時代によくありがちな表にだすとなにかとまずいという当時の思惑がおもいきりある人だからでしょう。

薩摩藩出身の彼、鹿児島にもお墓がないほどです。

普通、薩摩藩といえばすぐに名前がでるのが、西郷隆盛、藩主の島津斉彬(なりあきら)、大久保利通くらいなもので、決してこの中に五代の名前は含まれません。

しかし誰がなんといおうが、彼は明治の大物と断言してもよいでしょう。

明治政府になって初代の大阪商工会議所会頭、つまり、大阪実業界のトップに君臨していた大物です。

当時の大阪は間違いなく日本一の商業都市。商品の扱い高は東京なんかよりはるかに上で一時は首都を大阪に置くという構想が決まりかけていたほどです。だからこのとき造幣局なども大阪に設置したくらいなのですが、そこの会議所会頭は文字通り日本ビジネス界の頂点で、椅子に座ったのが彼なのですから、彼の功績と実力のほどがうかがえるというものです。

しかしこれが地元鹿児島では酷く冷遇されています。あの西南戦争では若い命を無駄死にさせたとまで言われた西郷隆盛と比較しても、関西では「大阪を作った男」とまで言われているほどの傑物の評価がいったいなぜ地元ではこんなにも低いのでしょうか。

こうした不自然なものには、特にこの時代には必ず「裏」があって、都合が悪いので「表」にださないという思惟が働いています。

さて、その「表」にでてはまずいこととは一体何なのでしょうか。

実はこの当時、幕府の長崎海軍伝習所で生徒として学んでいた元気な志士が薩摩から16人いましたが、その一人が五代友厚その人です。

この伝習所のトップはいわずとしれた勝海舟、教官はオランダ人で、この場面はNHK大河ドラマ「龍馬伝」にも紹介されていました。

さて、この長崎滞在中にこの16人の中でもとりわけ新しいもの好きの五代が頻繁に出入りするようになる場所が一か所あります。それもかなり隠密行動で。

それは皆さんもよくご存知、武器商人として本国イギリスから上海経由でやってきたグラバーの住まいでもあった「グラバー邸」です。

一度は幕府の命令で閉鎖されることになった長崎海軍伝習所ですが、このとき五代と勝海舟の間になにやら表には出せない密約があったようで、それが証拠に一度は薩摩に戻る五代ですが、再び藩の命令で長崎に出かけます。

1861年も終わりのころですが、その藩命とは薩摩藩の海軍力強化のための外国船の輸入です。

16名の長崎海軍伝習所の中で序列を押しのけて五代がその大役にありつけたのも、ここが重要なポイントなのですが、その才覚もさることながら、間違いなくグラバーとの深いかかわりがあったればこそのことで、こうしたことは日本の歴史では間違いなく闇に伏せようとします。

おそらく長崎生活中に培った彼の情報を薩摩に帰国して以来、あらんかぎりのプレゼンテーションで藩主を説き伏せたのでしょう。

現に積極的な改革派でもあった藩の小松帯刀(たてわき)との信頼関係でどんどん事が進み、外国船購入にこぎつけます。

そして結果として五代は薩摩藩御船奉行副役という名誉あるポジションについて以来ますますグラバーとの親密度が増していくことになるのですね。

こうなってくると、五代の立ち位置は薩摩藩というよりも、なかばグラバーの専属代理店といった様相を呈してくるため、土佐の坂本龍馬といった改革商業ベースにのった野心家たちとの親交も深くなっていき、歴史の表舞台で教科書に載るにふさわしい動きとは大凡かけはなれた水面下での活躍が光輝いてくる男。

そうなれば表舞台での薩摩藩からすれば、まさに目の上のたんこぶ的な存在で疎ましくも思われたでしょうが、幕府朝廷との直接的な係わりはないまま、常に経済発展に寄与してきた結果が先の初代大阪商工会議所の初代会頭として、今現在もその建物の前にこうして英雄として立ちはだかる像があるいわれにもうなづけるというものでしゃないでしょうか。

いずれこのコラムで、坂本龍馬暗殺の僕なりの真相もご紹介していきますが、この幕末はこうした動きが日本国内で、海外でどう動いていたかを知らずして理解することはまずもってして不可能というのが僕の持論です。

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