歴史の教科書で必ず登場する偉人の一人にこの人、聖徳太子がいます。
お札の顔にもなるくらいですから、何か大事なことをしてこられたお方なのかなとかなり興味を持って調べた時期がありました。
伝説によれば、馬小屋で産まれたことから厩戸(うまやど)皇子といわれたり、産まれたとたんにことばをしゃべった、、10人の話を一度に聞くことができたとか、諸説紛々、いろいろあります。
また関ヶ原の戦いで西軍の大将だった石田光成が敗走するときに、聖徳太子の像だけを持って逃げたとか伝説にはことかかない人です。
また、彼の最も偉大な仕事としては、あの日本最古といわれる「憲法十七条」や「冠位十二階」などを制定したことでしょうか。
しかしあれこれ彼のことを調べてみると意外な側面が見えてきます。
このころの日本(正確には日本という名前すらなかった)は日本列島の東半分より、朝鮮半島の方が近しい場所と意識していた可能性が大です。
邪馬台国のころから彼らは頻繁にお隣の中国に使いをだしては「服従します」みたいなことをいって見返りの品々をもらって帰国しては喜んでいましたが、聖徳太子のころに、えらく対外進出に積極的な「隋」という怖い国が中国で生まれます。
そこで聖徳太子はあれこれ策を練って、小野妹子(男です)たちを「隋」に派遣します。
太子は隋の皇帝、煬帝(ようだい)への手紙にこう書きました。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無き(つつがなき)や」。
簡単に言ってみれば、「僕は太陽が昇る国のえらい人で、あんたは日が沈む国のえらい人。まあひとつよろしく頼みまっせ」みたいな感じでしょうか。
これは完全に対等な物言いでため口です。
普通ならこてんぱんにやられるはずですよね。
案の定、煬帝はこの手紙を読んで烈火のごとく怒りますが、正式な使節を太子のもとに派遣しました。
これは実は朝鮮半島の支配を虎視眈眈と狙っていた隋が、日本まで敵にまわすのは明らかに得策ではないと判断した結果で、太子はこうなることを事前にちゃんと読んで確信していました。
ここにこそ、彼の外交的な手腕の凄さが隠されているのではないでしょうか。