自然の中に住み、自然を描く、寺尾一郎のクレヨン画

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伊豆に移住してから、この地を訪ね、歴史探訪してみました。

今の伊豆の国市にこの史跡が遺されていますが、その名前も「蛭ヶ小島」。

いわずと知れた源頼朝が平清盛の命によって流刑となった場所です。

ただ原文は読めませんが、あの有名な「吾妻鏡」を読んでみると、この地の名前が「蛭島」と記されていることから、今の名前はずっとあとになってから改名されたのでしょう。

歴史が大好きなお方であれば、なぜあの清盛が目の上のたんこぶでもある幼少の頼朝を死罪にしなかったのか興味がつきない部分でもありますね。

義経を産んだ常盤御前(日本史でも最も美人であった誉れが高い女性)が当時、清盛に「あなたの妾になるから2人を死罪にしないで欲しい」と哀願します。はじめのうちは腹をきめていた清盛も、絶世の美女が自分の愛人になるからという願いと、継母の池禅尼のたっての命乞いに負けてこの「蛭ヶ小島」に流刑としてしまいます。その2人の一人がのちの鎌倉幕府を樹立して平家を滅ぼすことになる頼朝です。

頼朝はこの流刑の地にあしかけ20年生活しますが、その間に伊豆一帯を散策し鋭気を養い、北条政子を娶り、挙兵するわけです。

さて、いったいなぜ平清盛は死罪にしなかったのか。

おそらく、彼らの以前から罪人は島流しが通例でしたが、清盛もこの「蛭ヶ小島」という名前から、てっきり本州からは遠く離れた島だと思ったに違いありません。

まさか陸続きの場所だったとは思ってもみなかったでしょう。

土地の名前にごまかされて流刑にしてしまったのが人生最大の誤算だったわけです。

では歴史に「もし?」はないとはいいますが、もしこの地が陸続きであることを知っていたら彼は見逃さずに殺していたでしょうか。

どうも僕の意見ではそれでも見逃していたのではないかと思うふしが多々あります。

英雄色を好むとはよくいわれますが、この清盛もご多聞にもれずかなりの色男だったようですから、きっと常盤御前の妖艶さに負けていたのだろうと想像します。

そして案の定、のちに政権を奪還した頼朝に根絶やしにされる(壇ノ浦の戦い)わけですが、歴史を最も歴史学者以上に正確に学んでいた男、徳川家康は間違いなくこの「吾妻鏡」をよーく精読して頭に叩き込んでいたと考えられます。

その考えは豊臣秀吉亡きあとを継いだ嫡男の秀頼と淀を大阪夏の陣で自害させていますから、徹底していたといえるでしょう。

土地の名前を勘違いしたことが命とりになるという歴史上の皮肉なお話かもしれません。

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